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【デイリーニュース】vol.22 特集上映「トップランナーたちの原点」岡村尚人 トークショー『恐怖のメロディ』

トップランナーになれたのはどこかで“あのこと”に気が付いたから!

恐怖のメロディ』ゲストの岡村尚人さん(「午前十時の映画祭」事務局員)

 

映画祭7日目。「トップランナーたちの原点」特集の最後の作品は、クリント・イーストウッドの監督デビュー作『恐怖のメロディ』、1971年の作品である。1930年生まれ、今年89歳になるイーストウッドは、今年も『運び屋』で監督・主演を果たした現役だ。

 

カリフォルニア州カーメルのラジオ局でDJをつとめているデイブ。彼の番組に、いつも「『ミスティ』をかけて」と電話リクエストをする女性イブリンと一夜の関係を結ぶが、それ以来イブリンはデイブにしつこく付きまとい、デイブを悩ませる。やがてその行動は異常な暴力性をみせ、デイブの周囲の人々にも危険が及ぶようになっていく……。

 

下積みが長く、TV俳優として人気がやっと出たものの映画俳優としてはなかなか認められず、イタリアに渡って「イタリア製西部劇=マカロニウエスタン」に出演。帰国後やっと映画俳優の仕事が回って来始めて数年たったところで監督を試みたのが本作である。このあたりのいきさつをはじめ、本作を解説するゲストとして、ベテラン映画宣伝マンであり、「午前十時の映画祭」事務局の岡村尚人氏が登壇した。

 

「1930年生まれのイーストウッドは、20代終わりにTVの『ローハイド』で人気が出るけれど、映画俳優としては、64年にイタリアに渡って撮ったレオーネとの“ドル箱三部作”、つまり『荒野の用心棒』(64)、『夕陽のガンマン』(65)、『続・夕陽のガンマン』(66)でやっと認められた。34歳~37歳の頃で、この三部作が67年にアメリカで立て続けに公開されてヒットして、68年に帰国してスターになったわけです。帰国して、イタリアで稼いだ金をもとにマルパソプロダクションを作り、『奴らを高く吊るせ』(68)で西部劇を撮るけれど、人気も出たしでこの辺りでいろいろチャレンジしてみるんです。その中で3本、ドン・シーゲル監督と組んだことで、“俺も監督できるかも”と思ったんじゃないかと私は思っています」

 

ドン・シーゲル監督は、この『恐怖のメロディ』にバーテンダーの役で出演している。

 

「このシーゲル監督って、映画を“チャッチャッ”と撮る人なんです。セルジオ・レオーネはでたらめというか、段取りとか無茶苦茶で、撮影が長い。英語ができないから意思疎通が難しいし、年が近い分、反発もするわけです。でもシーゲルは18歳上だから一目置くんですね、イーストウッドも。シーゲル監督とやった『マンハッタン無宿』(68)、『真昼の死闘』(70)、『白い肌の異常な夜』(71)は、3本とも“女は怖いよ”という話。田舎の保安官がニューヨークのヒッピー娘にもてあそばれる『マンハッタン無宿』、助けたのはシャーリー・マクレーンの尼さんかと思ったら革命家の娼婦だったという『真昼の死闘』、南北戦争の負傷兵が女ばっかりの寄宿学校で女たちの嫉妬のために足を切り落とされて最後は殺されちゃう『白い肌の異常な夜』。この『白い肌の異常な夜』は大コケしたんです。そりゃそうだろうと思いますが。そして、イーストウッドが主演・初監督したのが『恐怖のメロディ』なんです」

 

恐怖のメロディ』の脚本は、イーストウッドの女友達が持ち込んだものだと岡村さんは言う。

 

「イーストウッドは、これならできると思ったんじゃないでしょうか(笑)。なぜなら、当時のイーストウッドは、若くてハンサムで人気があっていい体してて、そりゃあモテてたわけですよ。今でいう追っかけとか、熱狂的なファンとかもいたと思います。実体験でできるじゃないかと思ったんじゃないかと(笑)。で、ユニバーサルに話を持っていくわけですが、重役はヒットするなんて思っていない。でも、イーストウッドだからやらせてもいいかと」

 

恐怖のメロディ』でイーストウッドの契約は、監督料はなし、ギャラは歩合というものだった。しかし95万ドルの予算に対し、71年11月に公開されるや大ヒット! 約1000万ドルを稼いだ。

 

「この年はすごい活躍で、12月には『ダーティハリー』が公開されて、これまた大大大ヒット。イーストウッドは押しも押されぬ、大スター、ドル箱スターになるわけです。日本では公開順が『ダーティハリー』が72年2月で、『恐怖のメロディ』が72年4月なんです。『ダーティハリー』の評判は良かったしヒットしたけれど、『恐怖のメロディ』の方は当時「キネ旬」の編集長だった白井佳夫だけが褒めた。まぁ『許されざる者』以前のイーストウッド監督作品なんて、批評家はみんな無視していましたからね。お客さんには好かれても。23本自作自演してヒットもしているなんて、ウディ・アレンとイーストウッドくらいですよ。これはすごいことだと思いませんか」

 

批評家が無視した理由を、岡村さんはこう考えている。

 

「72年と言えば、まだまだアメリカン・ニューシネマ全盛期。でも、『恐怖のメロディ』は全然ニューシネマっぽくない。そういう時代背景とは関係ないけれども、面白いんです。イーストウッドは、下積みだった50年代の終わりの頃、映画を観まくっていたらしいんです。たぶん『めまい』(58)、『サイコ』(60)あたりのヒッチコックを観ていたんじゃないでしょうか。『恐怖のメロディ』のサスペンスって、ヒッチコックみたいな面白さがある。真似をしたというより、俺ならこうするって考えながら観ていたんじゃないかと、私は思います」

 

名宣伝マンとして知られる岡村さんは、日本タイトルの付け方について持論があった。

 

「そんな『恐怖のメロディ』ですが、私だったら今なら原題のまま『プレイ・ミスティ・フォー・ミー』にしますね。ロゴも浮かびます、シャープな感じの明朝体ね。でも当時は“何の映画かわかんねえよ”って言われたでしょうね(笑)。でも、さっき調べていて気が付いたんですよ。71年、日本で大ヒットした『小さな恋のメロディ』の存在に(笑)。翌72年、邦題に「メロディ」とつく映画が4本もあるんです。『死刑台のメロディ』『暗殺者のメロディ』『恋人たちのメロディ』、そしてこの『恐怖のメロディ』。ヒットにあやかろうというやつだったのかなと(笑) そんなもんです、邦題の決め方って」

 

この後イーストウッドは監督作を作り続け、トップランナーとなる。岡本さんは言う。

 

「今回の特集『トップランナーたちの原点』で上映される、ジョージ・ルーカスもスティーヴン・ソダーバーグも、トップランナーになれたのはどこかで気が付いたからだと思うんですよ。イーストウッドは最初に気づいたけれど。つまりね、“映画は当たらないとダメ”だということ。当たれば、次は好きなことができるんです。映画を作り続けられるってことですよ。イーストウッドはデビュー作の『恐怖のメロディ』でそれをやってのけたわけですね」